高知県知事時代

  • 産振計画②~地産外商へ大転換~
  • 番外編

海外への地産外商

 「危ない!食べてはダメだ」。2012年11月、インドネシアに出張中だった私は、昼食時、ホテルのバイキング会場で、秘書官に向かって思わず大声をあげてしまった。彼は生魚をのせた寿司を食べようとしていたのだ。
 私は、20年前、外交官としてインドネシアで3年間勤務した。当時は、アジア通貨危機の真っ只中。財務・金融担当書記官として、友好国中の友好国であるインドネシアの債務危機脱出のために、最前線で大忙しの日々だった。その際、生活面で最大のストレスとなったのが、日本食を食べられないことだった。ご当地ラーメンの袋詰めは、日本からのお土産人気No.1だったし、トロの刺身が食べられたのは、大使公邸での賓客を招いた夕食会だけであった。
 そんな中、当時は、現地のレストランで生の魚を食べるなど危険極まりないことだった。お腹を壊すだけではすまない危険もあった。
 だから、秘書官が寿司を食べようとした時、思わず必死で制止してしまったのだ。だが、きょとんとする秘書官に促されて周りを見渡せば、出張者と思しき欧米人も含め皆が平気で刺身を食べていた。
 この出張を通じて、私は、今では、インドネシアでも、日本式のラーメン店も複数あるし、寿司屋もネタこそやや違え、珍しいものではないことを知った。
 私がインドネシアで勤務した20年前とは打って変わって、衛生環境の劇的な改善と相まって、世界遺産となった日本食は、いまや完全にアジアの日常となっていたのだ。

《フランスの国旗と》

 こうした背景もあり、食品分野の海外輸出は、ハードルは高かったが手応え十分だった。
 ゆずの賞味会をシンガポールで開催し、これに参加したシェフの力を借りて、ヨーロッパの星付きの高級レストランにゆずを売り込んだが、予想を超えて好評であった。北川村の実生のゆずと同じレベルのものを、フランスでそう簡単につくることはできない。土壌も水も異なるし、「ゆずは18年」でもある。作物にもよるのだろうが、一次産品は概ね、工業製品などよりも、はるかに持続的に差別化可能な商品だと自信を深めた。
 更に、日本酒の売り込みのために、ロンドンでツアーを行ったが、これまた大好評であった。淡麗辛口の土佐酒は、西洋料理にも合わせやすいのだそうだ。
 そして、いまや、暑い暑い東南アジアに対して鮮魚の輸出が可能な時代だ。現地の寿司チェーンを皮切りに段階的に輸出を始め、徐々に規模を拡大していった。その結果、産地の宿毛では、養殖業の振興と相まって、輸出にも対応した最新鋭の水産加工場の誘致も実現した。
 この分野では、国の具体的な後押しも重要であった。各国の検疫の壁をこじ開けるためには外交の力が欠かせないし、現地での商流確保のために、現地のJETROとの連携は極めて有効だった。後に、JETRO 高知の皆さんに、県庁の地産地消・外商課の隣に引っ越して頂いたのもこのためだ。
 幸いにして、高知の食料品の海外輸出額は、2009年の0.5億円から、18年には14.5億円へと約30倍近く拡大した。
 コロナ禍の終息を待たねばならないが、こうした食料品輸出は、これからの田舎の可能性を大きく切り開くものだろう。その経済効果は誠に大きいし、田舎の若者に勇気と夢を与える、そうした大きな役割も期待できる。
 北川村のあるユズ農園にはフランス国旗が掲げられている。同国の検疫条件をクリアする世界でも最高級の実生のゆずを産する農園だ。ここに働く若者たちは、山深い山村にて誇りをもって世界を相手に仕事している。若者を中山間に残す。そのためにも一次産業の国際展開は極めて有効なのである。

《命を救うために》

 一次産業とならんで、防災関連産業も輸出向けに有望であった。この分野は、災害多発という弱みを強みに転じて、高知のものづくりの振興を図ろうと、産業振興計画の二次産業関連政策の中で重点を置いた分野である。
 フィリピンやインドネシアを出張で回った際、その防災インフラの脆弱性には正直暗澹たる思いがした。大都市の河川でも堤防整備が十分でなく、甚大な数の人的被害が生じていた。
 現地の日本法人の方に伺ったのだが、政府の予算措置はあっても、技術不足等により執行体制が脆弱であり、外国の支援が大いに必要だとのことであった。
 高知では、度重なる被災経験を経て、災害を克服するための技術やノウハウを多くの方が磨いてきた。日本全体としてもそうだろう。この貴重なノウハウを、輸出産業として生かし、それにより途上国の多くの命を救う。被災経験の多い地方の若者たちの志を生かす、是非伸ばしたい分野だと思っている。

第五回「産振計画② 〜地産外商へ大転換〜」番外編③「企業誘致も」へ続く)