高知県知事時代

  • 第三回
  • 県政スタート
  • 2020年3月19日掲載

天にも通じるまで


「十河副知事案が世の中へ」

 知事在任中、大きな固まりとして「県民の声」が聞こえるように感じた時が幾度かあった。2007年12月12日、県政策企画部長だった十河清さんを副知事候補として議案提出、との報道が出た時が最初だ。
 あの時は、県民の「おお、ほっとした」という声が本当に聞こえた気がした。40歳という若さを懸念された私である。県行政に精通し、庁内外に分厚いネットワークを持った十河副知事誕生は県民にとってこの上ない安心材料だったろう。
 十河さんは、県政スタート時の不安定な時期に、若く未熟な私を親身になって支えてくださった。十河さんが庁内をしっかりまとめてくれたからこそ、私も時に職員と格闘もし、思う存分政策立案に邁進できた。誠に県政の恩人である。

《対話と実行》

 私の座右の銘は「至誠通天」だ。誠を尽くせば、願いは天に通ず。孟子の言葉を、吉田松陰先生が門下生に説いたことで知られる。
 ただ、この言葉を私は次のようにも受け止めている。天にも通じることとなるまで誠を尽くせ、すなわち、世の中を動かすこととなるまで、誠を持って取り組み続けろ、と。
 選挙を通じて、私は高知の厳しさを知った。そして、就任後始めた「対話と実行座談会」で、さらに多くを学ばせてもらった。
 08年度に全34市町村で行った座談会には、それぞれ地域を代表する10人前後の方々に出席いただいた。毎回、私から県政全般について説明した後、各出席者から意見表明してもらい、個別に意見交換した。傍聴者の質問も受け、全体で四時間を超えたこともある。
 対話を通じて県民からいただいた知恵を実行につなげるという「対話と実行」のスローガンそのままに、地域地域の厳しさを学ばせてもらったし、解決策のヒントも時としていただいた。
 ただ、会を重ねるにつれ実感したのは、厳しさに対応した県の施策に不満な人がかなりいる、ということだった。実際、職員が準備してくれた「答案」を答えても、相手の納得がなかなか得られないことが多かった。

《いられ、短気》

 尾﨑県政の12年間を振り返る高知新聞の特集記事では「いられ」「短気」と散々書かれた。人並みに笑いもするのに、いつも怒っているかのような記述には正直閉口した。
 ただ、就任後1、2年は確かに私はよく怒っていた。県民との対話から得た問題意識を県庁で述べても、話がかみ合わないことが多々あったのだ。
 長い役人生活のお陰で、私はいわゆる役人言葉に通じている。「問題意識は持っているが財政が厳しい。できることは既にやっています。」といった答弁は要注意だ。
 「厳しい財政事情」という言葉は時に免罪符となる。お金が無いなら知恵を出さねば潰れる民間と異なり、公務員に倒産はない。県庁は財政事情を隠れみのにしてないか、との疑いを度々持った。
 さらには、そもそも県の政策によって高知の窮状を救うなど無理だ、せめて無策批判だけは避けよう、という空気が支配的であるようにも感じられた。もちろん誠意あふれる熱い職員も数多くいたのだが。
 私はこの空気を変えたかった。高知の窮状に応じた政策を作り、窮状を脱するまで徹底する。こうした「至誠通天の県政」を実現すべく、十河さんの助けを借りて県庁職員と大議論を始めた。それが08年度を通じた産業振興計画の立案である。