高知県知事時代

  • 第四回
  • 産振計画①
  • 2020年3月21日掲載

職員の認識変える


「初登庁の日に職員訓示」

 実質的な就任初年度の2008年度は、産業振興計画の策定に没頭したが、正直なところ難渋を極めた。
 各部局からは既存施策の焼き直しのようなプランしか出てこない。中には、もともとある計画の文字を縦から横に変えたようなものも。12年間で一番腹が立った出来事だった。
 一方、当時の部局長たちも随分と私に腹を立てたはずだ。「もっと効果の上がるものを」「もっとスピード感を」とガミガミ言う私に対し、「何を無茶な」「若いくせに偉そうに」とさまざまな苦情が副知事の十河さんに寄せられたようだ。     
 未熟ゆえに多くの方に迷惑をかけてしまった。しかし、就任早々の私にとって、絶対に引くことのできない勝負でもあった。

《ギャップ》

 結論から言えば、必要なことは、基本認識のギャップを埋めることであった。県庁の施策で県経済全体の活性化をもたらすことができるか否か、についての認識である。
 財政再建路線が長く続いたからだろう。怒られるかも知れないが、当時の県庁は、一部の傑物を除いて「そんなことは無理だ」との空気が支配的だと私には思えた。多くの施策が「せめて個別のプロジェクトの成功を目指そう」という方針で展開されているようにも見えた。
 しかし、本気で経済全体の活性化を目指そうとすれば、おのずと考え方も規模感も全く変わってくる。
 私は、08年度を通じて、以下の3点を庁内に徹底し続けた。
 第一に、産振計画は本気で県経済の活性を目指すものとすること。第二に、そのために官民協働、市町村政との連携協調を基本とすること。第三に、このために十分な質と規模感を持った施策を講じることーである。
 県経済全体に効果をもたらそうとすれば、官や県の領域をできるだけ限定しようとする財政再建重視の発想ではダメだ。
 高知のような厳しい所では、官は経済活動の主体となる民の取り組みを効果的に応援しなければならず、職員の伴走支援に加え、時に財政支援も必要だ。地域の活性化に取り組む市町村の後押しも必要である。    
 他方で、こうした方針を貫けば、失敗のリスクも当然大きくなる。大胆にチャレンジするのは良いが、失敗したらどうする、との心配は庁内でも大きかった。
 この心配は全ての行動を萎縮させる。だから、責任は知事である私にあるということを明確にする必要があった。産業振興推進本部の本部長に私自らが就任したのはこのためである。リスク回避のために副知事に任せたら、とのアドバイスももらったが、それではダメだと腹を固めた。

《同志との出会い》

 官民協働を徹底するため、計画策定段階から、産業界、学会の参画を賜った。産業振興計画策定委員会を08年6月に立ち上げ、委員には農林水、商工観光など各界の重鎮に就任していただいた。知恵をもらいたいとの思いとともに、実行段階におけるコミットメントを期待したものでもあった。
 委員長には高知大学副学長の受田浩之教授に就任していただいた。教授からは、食品加工額を農業産出額で割った値が高知は全国最低レベル、すなわち加工して付加価値を付ける取り組みを高知は最もしてこなかった県だ、と伺い、感銘を受けた経緯があった。
 一次産業を基幹として関連産業への波及効果を狙うことを考えていた私にとって、まさに同志との出会いであった。