高知県知事時代

  • 第一回
  • 出 馬
  • 2020年3月18日掲載

意気に感じて決断


「夫婦で選挙に臨む」(2期目の出陣式から)

 「早う決めてくれんと。高知が心配やないがか。出てや!」
 2007年10月6日の昼前。東京の自宅でパソコンに向かっていた私の携帯電話に、県内の経営者の鬼気迫る声が響いた。
 経営者3人の方々から「高知は大変。全力で応援するから」と知事選の出馬要請を受けたのは、その一週間前。それまでも県政界から複数のアプローチをいただいてはいたが、慣れぬ世界のことでもあり、若い自分には無理だろう、との思いだった。
 しかし、3人の強烈な「押し」には正直面食らった。知り合ったばかりの方からこれ程の危機感をぶつけられるとは…。そして、この電話である。激烈な危機感あふれる訴えに、私も思わず答えてしまった。
 「そこまでおっしゃるなら、やりましょう」人生をかけた決断。本当に一瞬で、ある意味「意気に感じて」決めてしまった。
 確かに私は20代までは政治家志望だった。だが当時は、財務省の仕事にやりがいも覚え、東京で住み続けるべく住宅ローンを組んでまだ数年だった。
 妻子には申し訳ないことをした。
 出馬を伝えた時の妻の動揺ぶりは忘れられない。文字通り泣き叫んで反対した。小四と幼稚園の幼い息子達を心配しもしたであろう。もう断れる状況ではないのだ、と強行突破せざるを得なかった。
 長男も後に事情を知り、ベッドに突っ伏して泣きだした。親が不安定な立場になるのを幼いなりに感じ取ったのだろう。「高知に行ったら子犬を飼おうね」と妻と2人で慰めたものだ。

《覚悟の返信》

 実際にはこれからが大変だった。
 知事選には有力政治家の出馬話が2度ほど浮上。知名度の高い候補に比べ、県内で無名の私が不利なのは誰の目にも明らかだった。故松尾徹人前高知市長の出馬話が出た際には、関係者から「厳しい。やっぱり止めるか?」と心配するメールをもらった。
 しかし、いったん出馬すると宣言したのに、不利になったからやっぱりやめるというのでは、私は今後誰にも信用されなくなるだろう。そう腹を固めて「出ると言ったからには、何があろうとやります」と返信した。
 迷わなかったと言ったら嘘になる。メールを返すまでに一時間ぐらい悩んだ。4年、いや8年。長い、長い浪人生活を覚悟した。軽々しい決断をしてしまった、と後悔もした。
 この間、私の近くからさっと去っていった人も少なからずいた。一方、それでも応援してくれた多くの方々には、まさに心を支えられた。後日、松尾前市長には私の県政への思いを直接お話しした。若い私に後事を託してくださったのだろう。後々まで指導をたまわる恩人となった。

《ゲートを前に》

 財務省を退官して高知龍馬空港に降り立ったのは10月18日。投票日まで一ヶ月と一週間という超短期決戦の始まりだった。
 選挙戦を通じて知名度の低さに苦しんだが、多くの政界関係者のご尽力のおかげで、4党から推薦していただけたことは心強かった。まさに老壮青。多くの先生方に本当にお世話になった。
 今でも到着ロビーを前にトイレの鏡の前で深呼吸したことを思い出す。
 「このゲートをくぐれば厳しい政界だ。もう平穏な暮らしは望めない」
 極度の緊張の下、妻とともに、報道陣と出迎えにきてくれた方々であふれたロビーへとゲートをくぐった。