高知県知事時代

  • 第十一回
  • 防災対策①
  • 2020年3月29日掲載

助かる道 必ずある

 楽譜に沿って素晴らしい演奏を披露する。大変創造的なことだ。だが、政治家は、新たな楽曲を作ったか否かでその真価を問われる。そして、作りたい曲ではなく、作るべき曲を作ることを求められるのも政治家だ。
 首長は、メディア受けする「やりたいこと」をやろうとしがちだ。だが、それが県民のために今「やるべきこと」とは限らない。
 たとえ労多くして功少なくとも「やるべきこと」を首長は常に優先しなければならない。私はそう自戒してきた。


「被災地を訪れて」
《吹っ切れた迷い》

 知事として、つらく、困難で、地道だが、「やるべきこと」の典型が南海トラフ地震対策だった。そして、その抜本強化を図るきっかけが在任中2度訪れた。
 2011年3月11日、知事室に入ろうとした瞬間に緊急地震速報を聞いた。津波の映像に目を疑ったし、高知にも出た大津波警報への対応に追われた。
 やや落ち着いた頃、私は深い迷いに取りつかれてしまった。高知は果たして大丈夫なのか、という迷いだ。
 既に、相当な対策を取ってきたつもりだった。さらにと言っても、財源の制約もある。地震リスクを過度に強調すれば、企業誘致や観光など経済面に悪影響を与える恐れもあった。
 迷った私は、被災地からじかに学ぼうと、4月に東北を訪問した。被災地の皆さまに迷惑を掛けないよう、関係部局の副部長と秘書官と私だけでレンタカーに乗って被災地を回った。
 そして、覚悟は決まった。現実は報道よりもはるかに悲惨であった。全てが津波にのまれ音さえも失った景色。しん、とした被災地で私は自然の無慈悲を思った。堤防周辺の土地が根こそぎ削られた様は、既存の土木対策をあざ笑うように思えた。
 矢も盾もたまらず、帰高後直ちに対策強化に着手した。津波避難空間の整備を最優先に、できることから取り組み始めたのだ。
 次の契機は約1年後に訪れた。全国最悪、34㍍の津波想定高の発表である。
 政府が想定を再検討していることは知っていたし、20㍍ぐらいは覚悟していた。しかし、発表2日前の12年3月29日夕刻、南国市内を公用車で移動中に、危機管理部長からの緊急連絡によって、この想像を超えた想定を知らされた。
 首長は人前で泣いてはいけない。危機に弱いリーダーでは命を守れない。しかし、あの時は高知の前途を思い、車中で秘かに涙した。
 経済的にこんなにも大変な高知が、何故ここまで打ちのめされなくてはならないのか。せっかく龍馬伝で盛り上がってきたのに、と恨みもした。逃れられぬ重圧に体を締め付けられる思いもしたものだ。

《シェルター構想》

 何より心配したのは、県民の気持ちが一斉に後ろ向きになることだった。
 どうせ地震が来たら終わりだ、との空気が蔓延すれば、地震が来る前に高知はダメになる。前向きな取り組みなど消え、高知を去る人も増えるだろう。
 まずはこの気持ちこそが大問題だった。笑われもしたが、地下シェルター構想を急いで発表したのもこのためだ。たとえ津波が100㍍だろうが、助かる道は必ずある、との県民へのメッセージのつもりだった。
 併せて、避難空間の整備を急加速した。財源が足かせにならぬよう、市町村分を県が負担する異例の措置も設け、大いに活用した。
 いつ来るか分からぬ津波に備えるためであり、そして、県民の日々の気持ちを守るためでもあった。