- 第二回
- 知事選
- 2020年3月18日掲載
県民の苦しみ知る
「ビールケースに立って」(大豊町西峰にて)
2007年の知事選に出馬する直前、私は首相官邸で官房副長官の秘書官として勤務していた。副長官の元には内閣のあらゆる情報が集まる。おかげで私もさまざまな人や情報に接する機会を得たが、中でも驚いたのが高知の経済情勢だった。
《そんなバカな!》
07年当時、全国の有効求人倍率が一倍を超え、「失われた20年を脱した」との明るいムードが官邸内にも漂い始めていた。しかし、副長官への四国四県議長会の要望の席で、私は高知の議長さんの訴えに耳を疑った。
「高知の有効求人倍率は0.45程度でしか無いんですよ。地方の停滞にもっと目を向けて。」
そんなバカな!との思いでデータを調べると、全国の流れに全くついていけず、一人低迷する高知の姿が明らかになった。故郷の苦しみに気付かなかったことを申し訳なく思うとともに、中央官庁は地方のことを本当にわかっているのか、との疑問を抱いた。
地方出身を自負する私は、地方の話にはアンテナを立ててきたつもりだった。しかし、少なくとも自分が知る範囲では、高知の苦しみは霞ヶ関でさしたる話題になっていなかった。さらに言えば、三位一体の改革に象徴されるように「地方は国よりも余裕がある」と見る向きも多く、地方の窮状をどれだけ把握できているのかも疑問だ、と思った。
そこで、霞ヶ関職員と地方職員とで勉強会をつくろう、まずは高知関係者でやろうと、在京の同級生の県庁職員と相談して07年に設立したのが「なぶら会」である。
これは、地方のことを霞ヶ関が学ぶための勉強会だった。高知の財政課長に上京してもらい、厳しい懐具合を高知出身の霞ヶ関職員に説明してもらったりした。私は、高知関係者でまず成功させ、次は霞ヶ関全域に広げるつもりだった。
結局、期せずしてその秋に私が知事選挙に出馬することとなったため、この構想は頓挫したが、この間抱いた問題意識は、知事選出馬の政策的な動機となったし、また、知事選を通じて、その正しさを深く認識していくこととなる。
《真剣にやってよ!》
知事選の期間中、県民から数々の厳しいご意見をいただいた。
高齢の女性に両手で手首を握られて、「あんたほんまに大変ぞね。何とかしてよ。真剣にやってよ」と訴えられたあの時の涙が忘れられない。
「夫は仕事がなく、雪国でも無いのに出稼ぎに出てます。何でこんなことに」事務所で政策パネルを横目に語る女性の目は悲しみに沈んでいた。
「若者が集まっては町を出ていく相談ばかり」との話、「高知はもう良くならん。良くするなんて訴えん方が利口よ」とのアドバイス…。低迷する経済指標の背後には、こうした県民の苦しみと諦めがあった。
本当に、本当に大変だと思った。そして、焦りとともに、本当に知恵を出せるか不安にもなったものだ。
選挙戦を通じて私の若さも大変心配された。今でこそ珍しく無いが、当時は40歳で、当選すれば全国の知事で最年少。「あんた大丈夫?」とどれだけ言われたことか。一方で「つろうても負けたらいかんぞね」と母のような言葉をかけてくだっさた方もいた。
11月25日、約17万8千票、厳しい戦いを経て得票率約6割で当選させていただいた。知名度もなく、若さも心配された私が当選できたのは、ひとえに選挙戦を支えてくださった支援者、政党関係者の方々のおかげだ。