高知県知事時代

  • 第六回
  • 産振計画③
  • 2020年3月24日掲載

中山間を生かす道


「集落活動センターの開所式」(梼原はつせにて)

 中山間地域にどう向き合うかは、産業振興計画を策定する上での重要課題であった。
中山間こそ高知の強みの源泉である。高知が都市の魅力を競っても限界があるだろう。だが、高知の自然と、それに由来する人の魅力や産物には、東京にはない特有の強みがある。   
 政策効果の早期発現をもくろむ効率重視の観点からは、この中山間重視の考え方に否定的な意見もあった。しかし、中山間地域を軽視しては高知の強みを失いかねない。
 短期的な効率性を犠牲にしても、本来の強みを生かすことが中長期的な発展に資する、と方針を定めた。

《価値観の転換》

私は高知市で生まれ育ち、大学進学後は東京や外国で暮らした。このため、就任当初、中山間の暮らしについて、目からうろこが落ちる思いを度々した。
「対話と実行座談会」を通じて、地域の状況は厳しくとも、そこで暮らし続けたいと願う住民の思いの強さを実感した。2011年度の世論調査でも、中山間に住み続けたいと望む住民の割合は76.7%に達している。
併せて、中山間に新たな価値観が生まれつつあることも知った。
私の母は四万十川流域の育ちだ。子供のころ、大人たちは沈下橋を不便がっていた。だが、これこそが最高の観光資源だ、とする発想の大転換には、拍手喝采の思いだった。
小学校では「高知は平野の割合が全国最低。だからダメなのだ」と習った。しかし、逆に全国一の森林面積率84%をブランド化する「84プロジェクト」が立ち上がったことを知った。
多くの教えを受け、厳しくとも中山間を生かす道を採る、との覚悟を固めていったのだ。

《「何百と」》

問題は具体策だ。
産振計画では中山間由来の1次産業に重きを置くこととしていた。ただ、経済効果を各地にもたらすには、地域に根ざした地産外商事業が多数必要だった。このため、市町村ごとに複数の「地域アクションプラン」を立ち上げようと試みた。 
この構想を職員に相談した際には、心底驚かれたものだ。県全体でせいぜい五つか六つだろう、と思ったようだ。ただ、それでは県全体の浮揚には至らない。「何百と必要だ」と私も随分と無理を言った。庁内の反発を抑えようと、正庁ホールに職員を集めて長々と意義を説いたこともある。
官民協働、市町村政との連携の真価が試される局面でもあったが、結果として、地域支援企画員、市町村職員、住民の大変なご尽力によって、221もの地域アクションプランが立ち上がった。県勢浮揚に向けて大きな壁を乗り越えた思いがしたものだ。

《もっと奥まで》

2011年4月の県議会議員選挙の後、多くの議員から「中山間対策を抜本強化すべきだ」「役場付近にとどまらず、もっと奥まで自ら足を運んで」とのご意見を頂いた。
このため、2期目からは「対話と実行行脚」と称して各市町村を一日かけて巡る取り組みを始めた。また、副知事に代わり、私自身が中山間対策推進本部長に就任することとした。
こうした中、中山間対策に情熱を傾ける職員の発案で「集落活動センター」の取り組みが始まった。廃校跡などを活用し、地域の生活、福祉とともに、地産外商の拠点とすることを目指したものだ。併せて、若者が少ないなら全国から募集しようと移住促進策もスタートさせた。
こうして、中山間対策は、1次産業振興策、地域アクションプラン、集落活動センターの三層の政策群に、移住促進策を組み合わせたものへと進化していくこととなったのである。