- 第七回
- 産振計画④
- 2020年3月25日掲載
官民協働を願って
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「産振計画第1版を世に問う」
高校時代、恩師に「随想やエッセイといった小さな物語にとどまらず、トルストイやドフトエフスキーのような大きな物語を書ける人間になれ」と言われ、妙に心に残ったことを覚えている。
以来、重要な仕事に臨んだ際は、効果をあげるに十分なほど大きな物語を作ろう、と心掛けてきた。天にも通じるまで誠を尽くそうとの心がけでもある。要領は良くないかもしれないが、これこそが、事を成すための要諦の一つだと信じている。
2008年度を通じて、産業振興計画を十分に大きな物語とすべく、県民に知恵を頂きながら、職員とともに必死の努力を重ねた。そして、09年2月17日、受田浩之・高知大教授を委員長とする産振計画検討委員会の了承を得て、いよいよ、その第1版を世に問うべき時が来た。
知事の任期も残り少なくなったころ「一番大変だったのはいつか」とよく問われた。大変なことはたくさんあったが、一番緊張し、そして勝負だと感じたのは、この産振計画第1版を公にした時だ。
官民協働で政策を展開しなければ、県経済の苦境を脱することなどできない。この計画を県民に受け入れてもらえるか否かが、最初の大勝負だった。
記者発表は、ホテルの一室を借り切って行った。何とか県民に受け入れてもらいたい、との必死の思いで、スライドも多用し、今思い出しても恥ずかしくなるほど気負いこんでプレゼンしたことを覚えている。
《本気で実行!》
残念ながら、当初、計画は県民にあまり受けが良くなかった。
一つには、当時の県経済の極めて厳しい状況に比べて、十分に大きな物語ではなかったからだろうと思う。先述のとおり、地産外商を進める上での障害など、数々の否定的なコメントも頂いた。ただ、そうした批判をどんどん取り込んで改善していくのは、もとより覚悟の上であった。
実は、一番困惑したのは「どうせ計画を作って終わりだろう」という批判だった。「棚上げして終わり。過去にも繰り返されてきたことよ」との反応だ。
これを払拭することなくして、官民協働などおぼつかない。だから、第1版のキャッチフレーズは「本気で実行!」とした。「実行」するのは当たり前だが、当時としては、最大の批判に応える必死のフレーズだった。
《PDCA》
いわゆるPDCAサイクルの確立にも取り組んだ。計画(Plan)が確実に実行(Do)されるよう、四半期ごとの詳細な行動計画を作り、それぞれの施策ごとに、どの課が、いつまでに、何をすべきか (5W1H)を明確に定めた。
さらに、四半期毎に産業振興推進本部会議を開催し、各課の実行状況を確認した上で、課題がないか検討(Check)し、必要であれば改善策を作り実行( Action )するーというプロセスを徹底したのである。
事業ごとに進捗を管理する「PDCAシート」は電話帳のような厚みになった。最初の3、4年は私自らこれを一枚一枚、2日以上かけて確認した。「知事のくせにガミガミ、チマチマと…」と陰口もたたかれたが、PDCAサイクルを根付かせようと必死だった。
4選不出馬を決めた時、私は、このサイクルが庁内にほぼ根付いたことをもって私の役目は一定終わったと思った。2期目、3期目と、私がこの点について、目を光らせこそすれ、口出しすることはだんだん少なくなっていったのだ。今や高知県庁のPDCAサイクルは日本一だと、私は自負している。